アンチェルの生涯をたどると、激動に満ちた20世紀のチェコ史が浮かび上がってくる。アンチェルが生まれた1908年、チェコはまだハプスブルク帝国の統治下にあった。その10年後ハプルブルク帝国の崩壊を機に独立を果たしたのも束の間、周辺国による侵略をたびたび経験することになった。アンチェルは1939年のナチスによる侵略、1968年のソ連による侵略のあおりを受けながらも、精力的な音楽活動をした指揮者である。
アンチェルの生まれた南ボヘミアの小さな村トゥカピは、プラハから南に約80キロ離れた地点にある。アンチェルはのちにこの近くに別荘を建てるなど、森と湖に囲まれた自然豊かなこの地に終生愛着をもっていた。
アンチェルは1908年4月11日、ユダヤ人の父・レオポルドとスロヴァキア人の母・イダの間に生まれた。両親は蒸留業を営んでおり、音楽家の家系というわけではないが、教養深く、音楽好きであった。父親はたしなみ程度にだがピアノとヴァイオリンを弾くことができたし、母親は歌うのが好きで、家にはよく歌声が響いていた。
カレル少年の音楽への目覚めは早く、わずか5歳のとき〈カルメン〉のレコードに関心を示し、オペラハウスで観たいと両親にせがんだほどであった。両親とともに訪れた「5月5日歌劇場」でオーケストラに魅せられた彼は、やがてヴァイオリンを習い始めた。
「初めてヴァイオリンを手にしたとき、私の将来は決まってしまった。(1)」
11歳のときには村のオーケストラでヴァイオリンを弾くようになった。2歳年下でピアノの上手な妹・ハンナと数々の室内楽作品を合わせて楽しむようになったのもこの頃である。
やがてアンチェルは村を出て、プラハに留学することになった。父レオポルドが彼を弁護士にしたいと思っていたためである。プラハのギムナジウムには普通学校と芸術学校があり、アンチェルが通ったのは前者であるが、アンチェルは父親の意に反して音楽漬けの日々を過ごした。アンチェルはヴァイオリンに加えピアノも習い、オペラの編曲版やオーケストラ用のスコアを好んで弾いていた。
以下はアンチェルが学生オーケストラを指揮していたときのエピソードである。
「学生オーケストラ相手にハイドンの交響曲を指揮していると数学の先生がやって来て、私の指揮棒を取って言うんだ。『あまりいい演奏じゃないね・・・今勉強していますという感じだ。ジャズを演奏するようにやらなきゃ。こうすればずっといいしモダンになるよ、いいかい?』[……]私はコンサートマスターとしてヴァイオリンを手に取った。先生に指揮の知識はなく、何か拍子を取っていたにすぎなかったが、それはまさに音楽であった。(2)」
ハイドンをジャズのようにとは驚かされるが、この経験がアンチェルに生きた音楽の響きを植え付けることになった(ハイドンの録音は数少ないが、TAH117、TAH124-125、TAH405-406で聴くことができる)。この演奏は学生の間でも評判となり、アンチェル率いる学生オケは校内のさまざまな行事で活躍することになった。
アンチェルはさらに音楽を勉強したいという思いを押さえ切れず、最終的には両親が折れる形となった。晴れてプラハ音楽院の学生となったアンチェルの専攻はヴァイオリンでも指揮でもなく、作曲であった。