アンチェルは持ち物が着替えと薬だけという、まさに着の身着のままの状態でトロントへの亡命を決意し、家族の合流を待った。そのときハンナは南ボヘミアの別荘に、長男イルジーとその妻ジンドラはプラハに、次男イワンはデンマークにいた。イルジーらは車でハンナを迎えに行き、チェコスロヴァキアからウィーンへと抜けてトロントへ向かった。8月21日の夜明けまでにソ連の戦車部隊はプラハの重要拠点を制圧し、大半の国境検問所を手中に収めたのだが、その監視は甘かったという。ソ連軍にとって知識人たちの亡命は、反革命分子が国外に脱出したことを証明する格好のプロパガンダとなり、むしろ好都合だったのである。彼らの到着後まもなくイワンもトロントに到着し、アンチェルの決断は報われることになった。1969年夏までは小沢征爾がトロント交響楽団の監督を務めることになっており、アンチェルは客演指揮者として交代を待った。
チェコ共産党第一書記ドプチェクらは国外に逃れた知識人たちの帰国を訴えた。
「諸君の住むところはここだ。われわれは諸君を待っている。この共和国には諸君と諸君の技術が必要である。(1)」
アンチェルの突然の亡命を非難する者もあった(2)。
どのようないきさつで実現したのかは不明だが、アンチェルは1969年5月24日プラハの春音楽祭でチェコフィルを指揮している。最初で最後の里帰り公演であった。この演奏会を演出家・三谷礼二氏が聴いている。
「曲目はスークのアスラエルシンフォニーであったが、とにかくそれは私が聴いた、後にも先にも最高のオーケストラ演奏であった。はじめて聞く曲だったが、それは予想していたより、ずっと長大な曲だった。スークの曲は、それきり耳にしたこともないが、少なくともその時は、至高の傑作の一つであった。オーケストラは、指揮者のせっぱつまった、とことん突きつめたようなバトンに喰い下がるように、執念込めて反応し、リズムの精妙きわまりない囁き、旋律線の異常なほどの昂り、そして各フレーズの音色のただごとでない美しさ。指揮者とオーケストラは、同一人物が、ひとつの呼吸をしているようだった。そして聴衆は、蒼白い異様な沈黙の底で、ひそかに喘ぐようでさえあった。その沈黙は、どこかひたむきな抗議を思わせた。(3)」
このときアンチェルは髪を短く切って舞台に現れている(COCQ-83864のリーフレットに載っている写真はこの直後のものと思われる)。アンチェルの亡命は一部では裏切り行為と見なされており、里帰りには相当の覚悟が必要であったことをうかがわせる。会場には張り詰めた空気が漂い、聴衆にもこれがチェコフィルとの最後の演奏だと伝わった。かつてプラハ解放劇場で仕事を共にした歌手ソナ・セルヴェナは「チェコフィル時代に共演したとき、見たことがないほど悲しい目をしていたが、トロントで再会してその目はもっと深い悲しみをたたえているようだった(4)」と回顧している。
アンチェルはしかし、遠い異国の地で寂しく生涯を終えたわけではなかった。トロントでも大きなエネルギーをオーケストラに注ぎ、1973年までの短い間にまたしても実り豊かな時代を築き上げたのである。就任当時ほとんど初見で曲を仕上げてしまうオーケストラを見て、「もっと音楽の中に深く入って行けるように(5)」とリハーサルを重ねた。
また、聴衆を育てることに主眼を置いた。就任間もないころ、カナダでは無名に近いスークの〈アスラエル〉を成功させたことが自信となり(6)(Disco Archiva729)、定番から新作までを織り交ぜて幅広くレパートリーを紹介した。こと20世紀音楽に関しては、ブリテンの〈戦争レクイエム〉、オネゲルの〈火刑台上のジャンヌダルク〉のほか、北アメリカの作曲家であるペピン、ウィラン、ターナー、コープランドなどの作品にまで触手を伸ばした。アンチェルのフランス音楽の録音は数少ないため意外に感じるが、ラロ、ドビュッシー、ラヴェル、イベール、メシアン、ジョリヴェにも取り組んでいる(7)。その一方で、ベートーヴェン、ブラームス、モーツァルト、マーラー、シューベルト、シューマン、メンデルスゾーン、ブルックナー等の一般的なレパートリーを手がけることも忘れなかった(TAH121-123、TAH136-137、TAH220-221、TAH222-223、TAH242、TAH536)。
アンチェルの音楽は高い評価を受けた。1972年4月17日付の新聞(Washington Evening Star)には「冷たい機械が人間になった」という記事が掲載された。
「前回小沢征爾が指揮をした〈幻想交響曲〉はスペクタル劇のような華々しい演奏だったが、アンチェルの指揮ではまったく違う印象だった。(8)」
いわく小澤の指揮のときほどオーケストラは緻密ではなく、弦のアンサンブルもいまひとつまとまりに欠けるものの、心の琴線に触れるあたたかい音楽になったという。
チェコフィル時代、アンチェルが依然としてユダヤ系として偏見を持たれていたのも事実であったが、トロント響の多くのメンバーはユダヤ系の亡命者であった。アンチェルがトロントへの亡命を決意した背景にあるのは、今度こそ家族を守りたいという思いにほかならないが、こうした環境も一因であろう。興味深いのは、オスカル・モラヴェッツによる「アンネ・フランクの日記から」という声楽付き交響詩の世界初演をアンチェルが行っていることである。隠れ家生活を支えたヴィクトル・クグラーがトロントに移住していた縁で、1970年4月26日に行われたこの初演に何とオットー・フランクも同席している。「カナダの演奏史上もっとも大きな出来事の一つ」とクグラーは述べている(9)。
アンチェルはトロント響で指揮を執る傍ら、クリーヴランド管弦楽団、ニューヨークフィル、アムステルダム・コンセルトヘボウ等数々のオーケストラに客演するなど多忙な日々を送った。トロントで、ピアノコンクールの審査員まで務めている(10)。ストコフスキーら当地の指揮者仲間や、先に亡命していた旧知の音楽家とも積極的にかかわりを持った。
だがアンチェルは収容所生活で健康を害しており、糖尿病を患いながらの活動であった。トロント響とのコンサートは170回にも上ったが(11)、健康上の理由で指揮を執れないこともしばしばあった。1972年11月にはドクターストップがかかり、1973年5月、次のシーズンの契約をあきらめることにした。クリーヴランド管弦楽団ではセルが(12)、ニューヨークフィルではストコフスキーが(13)、アンチェルをぜひ後継者にと手ぐすねを引いていたが、叶わぬ希望であった。1973年7月3日、アンチェルは波乱の生涯を終えた。
亡くなるわずか9ヶ月前、1972年10月7日にアンチェルはCBC放送のインタビューに答えている。そこには演奏計画を鮮やかに描き出すアンチェルがいる。
「大好きなモーツァルトのレクイエムを次のシーズンのハイライトにしたい。(14)」
トロント響就任以来、この作品を演奏するのを楽しみにしていたという。それだけ演奏水準が上がったということでもあっただろうし、残された日々を数えてのことでもあったのだろう。1973年1月23日と24日にレクイエムが演奏されたことがわかっている。
アンチェルの死に、トロントの人々は悲しみに沈んだ。当時の新聞記事からはアンチェルの人間性や音楽性が伝わってくる。
「彼は生涯を通して、持って生まれた高潔さと勇気をもって、芸術と自由を守った。ナチに家族を奪われ、集団キャンプで残忍な仕打ちを受けたにもかかわらず、彼はこの上なく洗練された人間のままだった。(15)」
「彼は楽員を単なる楽器奏者として見るのではなく、その向こう側にいる人間を見ようとした。彼は楽員に精神的な苦痛を与えることがないようにと心がけていた(VAI4322でリハーサル風景を見ることができる)。(16)」
「彼の解釈は人々をはっと驚かせるような種類のものではなかった。彼はスコアに内在する意味を汲んで演奏することを求め、たとえ何百回と演奏した作品であってもさらに深くそれを追究しようとした。彼が理想の指揮者でなければ、他の誰がそうだというのだろう?今日、世界中でこれほどの手腕を持った音楽家はそんなにはいない。(17)」
弔辞によれば「アンチェルの職業は音楽だけでなく、愛だった」という(18)。アンチェルはこの地に溶け込み、多くの人々と信頼関係を築いた。トロントの新聞記者(Tronto Star)に芸術的信条を語ることもあれば(語録)、「政治には興味がない」と打ち明けることさえあった。当初移住をためらった妻ハンナもまたここでの生活に馴染み、アンチェルが「いつかプラハに戻ろう」と話しても首を横に振るほどだったという(19)。
だが次男イワンの末路は悲しいものであった。トロントに移住してから薬物に手を染め、わずか46歳で早世してしまう。彼もまた、国と国との争いによって人生を狂わされた一人だった。
ハンナはアンチェル亡き後10年の間亡きがらを守ってカナダに暮らした。2人の遺灰が故郷プラハに戻ってくるのはビロード革命後のことになる。1993年5月12日、プラハの春音楽祭でセレモニーが行われ、彼らはチェコフィルの演奏で迎えられた。
このトロント時代は商業的な録音がほとんど行われなかったため、アンチェルの名が表舞台から消えてしまう形となった。わずかに残された放送用の音源をCD化したのは、かつて師事したシェルヘンの娘ミリアム(TAHRAレーベルの社長である)であった。それらのCDがひっそりとアンチェルの最後の輝きを伝えている。